2016年 07月 15日
伊丹十三の名訳本 「ポテトブック」と「主夫と生活」
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字数制限を間違えてしまって、でもご厚意でそのまアップして下さって。(;'∀')

購入した時に、「この本を買った人はこんな本も読んでいます」に、しっかりのせられてしまって、二冊目をポチっとしたのが、同じく伊丹十三翻訳の主夫と生活 My Life as a Househusband
原題は as a Househusbandだから「主夫としての生活」ですけどね。
書かれたのは、なんと1970年代、今は遠い「ウーマンリブ」全盛の時代で、復刊にあたって「歴史的文書」として読むか「文学作品」といて読まれるべきといいうのが、あとがきにあって思わず苦笑してしまう。
50年近くたっても、主夫はまったくメジャーじゃない日本。アメリカだってどうなんだろうね。
私が知る日本人の専業主夫はたったひとり。それも日本には暮らしていない人。

伊丹十三は、そのまま訳したら、ストーリーにもならないので、僕が行間をたくさん埋めていますというようなコメントもあって、だから、文学作品なのだろうね。
内容はいわずもがなの「家庭の仕事」のつまらなさ、家事なんて終わりのない仕事には価値さえないというとらえ方で、結局、掃除は外注し、洗濯は子どもたちに分担させて、なんとか料理がまとも!できるようになったというたった1年の主夫体験で終わってしまうというダメすぎる内容。
暮らしのきほん、生きていくために必要な暮らしを大切にしたいなんていう考えはみじんもなく、合理的こそ意味があるというアメリカンな主夫なのであった。
だから余計、毎日の朝ドラにあるような「暮らしの楽しさ」や、「暮らしの工夫」やら、「丁寧な暮らし」のその対岸にあって、読んでいて、大いに楽しかったのでした。
暮らし方は生き方だよねとも。
今は当時よりも豊かになったか?と言えば、夫も家事に参加しないと(妻が働ないと)生活が成り立たないほどになっている日本だもんね。専業主夫だ、専業主婦だと言えるのは、どちらかの稼ぎで家族が暮らせるだけの働きがあるということだしね。そう考えると専業主婦がいっぱいいた時代の方がずっと豊かだったと言えるのではないかしら。
それにしても伊丹十三さんの名訳は本当に愉快で楽しい。
「これを読んだ人は…」で、アマゾンでまた次のポチちないようにしなくちゃ。

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現代のアメリカでもあまり主夫はいないようです。少なくとも回りでは見ませんね〜。
家事の単調さに楽しみを見出せないのは、男性の脳の構造からするとごく自然な事なのかも。
女性は細かい事に気がついて巣を作るのが上手な傾向があるし。
もちろん向き不向きがあるので、夫婦が折り合えば主夫でも主婦でもいいと思います。
ただ、どちらかが家を守ってないと家族がバラバラになってく気がします。
そういう意味ではおっしゃる通り昔の家庭は豊かだったかも。誰かが家に居てくれたものね。
合理的なアメリカですものね。
ただ、うちの娘婿は、カントリーボーイなんで、すごく料理が上手で、ほぼ平日は彼が作っているみたいですよ。主夫とは言えないけど、名コック。
家事の分担ってどこの国も難しいね。
私はどちらも同じようにできるのがいいと思うの。得意な方がやるでは、回らない時は困るからね。
セカンドライフになって、夫にいつもそう言っているんです。
生活者として自立して行こうねって。日用品の買い置きストックの場所や、ゴミ出しの曜日くらいちゃんと知っておいてねって。